“学力低下”がなぜ悪い 続き~読解力は [ニュース・クリップ]
昨日の続きを少々。
たしかに「読解力」という点では、ちょっと困った事態かな、とも思う。私の通う文章教室では、講師がいつも「日本は国語教育をおろそかにしすぎる」と苦言を呈するのだけれど、活字離れを言う前に、減ってしまった国語の時間を元に戻してもいいのでは。
そうはいっても、文法中心では何の意味もないので、よくいわれる「文章を味わう」授業を増やすのがいちばんいいのではと思う。どんな短文でもいい、ちょっとした文献を与えて、思ったこと感じたことを書く、というような。小説だけでなく、たとえばカタログの説明文みたいなものでも、立派な教材になると思う。
と、ここまではいいのだけれど、これにも問題があって、“評価する教師の力量が伴わないと、むしろ逆効果”ということもある。『清水義範の作文教室/ハヤカワ文庫JA』のなかで、著者がとてもいいことを言っている。それは、“添削はいいが、元の文章がなくなるほど変えては、個性=よさが消えてしまう。といって、テーマ性=内容まで踏み込むと、“作文”授業ではなくなってしまう。”
私も昔、PTA新聞に載せるという作文を、思いっきり“添削”されて――それもとてつもなく“優等生”的なものに――「これは私が書いたんじゃない」「私の作品じゃない」と反発を感じたことがあった。
思うに、いちばんいいのは、やはり「本を読むこと」だと。
娘の中学校で“朝読(書)”をやっているが、大いに賛成。(娘の担任は「無駄だ」と、へいちゃらで子どもたちの前で言ってるらしいが。)
読解力をつけるためには、やはり、まず多くのさまざまな文章を読み込まなければ、だめだろうし、読解力がつけば理解力も増す。ぐるっとまわって、最初に書いた「国語教育がいちばん大事」という(私の通う文章教室の講師の)発言につきると思う。